いい本 その8
「空飛ぶ教室」
おとなにはおとなの生活があります。
「ああ、エドアルトはわたしに好意をよせていました。今クルフェルステソダム通りを横ぎってかけてきてくれたら。
わたしのとういすの前に立ちどまって、心をこめてわたしを見つめ、小さい角でわたしをつついてくれたらーわたしはうれしさのあまり、ヨーデル調で声をはりあげるでしょう。
そして、いつまでもわたしのところにひきとるでしょう。
彼はわたしのバルコニーにだって住めるでしょう。
海草製の古い下じきをたぺさせてやりましょう。
そして夕がたはいっしょにグルーネワルトを散歩するでしょう・・・・・。
しかし、今すわっているところには、小牛なんか通りはしません。
せいぜい、ときどき、おばかさんが通るくらいです。
それから市電がちんちんと通ります。
バスがぶうぶうがたがたと通りすぎ、自動車が、今にも殺されそうに警笛をならします。
みんないそいでいきます。
ほんとうに、わたしは大都会にもどっているわけです。
ツークシュピッツェ山のふもとでは野の花がかおっていました。
ここでは自動車のタイヤとベソゾールのまぜもののにおいがします。
それでも、モミの木にせよ、あるいは工場の煙突にせよ、高いビルディソグにせよ、あるいは消えることのない雪にせよ、穀物ばたけにせよ、あるいは地下鉄の駅にせよ、空中に浮かぶクモの糸にせよ、あるいは電話線にせよ、満員の大映画館にせよ、あるいは山間の緑の湖にせよ、町にせよ、あるいはいなかにせよ、わたしはどちらもすきです。
どちらも愛されるねうちがあります。
いっぽうがかけたら、かたほうは、どうなるでしょう。」
ケストナーは、たしかに大自然と子ども、都会とおとなという考え方の上に立って書いている。
蝶もあめ色の牛も、そこでは死んでもう姿を見せません。